常盤橋エリアの文化的価値とは

岡本 哲志 氏 これまでの歩みを振り返り、常盤橋エリアのこれからを考える 第2回

江戸のメジャーな通りだった常盤橋

江戸時代の常盤橋は、江戸城内と江戸の町内を結ぶ重要な通りに架けられた橋であり、参勤交代のルートにもなっていた、晴れがましい場所だったと言えます。
江戸時代初期の江戸の様子が描かれた「江戸図屏風」には、江戸城を訪問する朝鮮通信使の行列と、通りの両側に詰めかけた見物人の賑やかな様子が描かれています。常盤橋も、その道筋にありました。また、将軍が御上覧する「天下祭(てんかまつり)」と呼ばれ、隔年で交互に開催された神田明神の神田祭(かんだまつり)、日枝神社の山王祭(さんのうさい)では、神輿や山車の通り道でもありました。将軍御上覧の後、大手御門から武家屋敷の塀沿いの道を通り、常磐橋を渡って日本橋町内へと向かったのです。
町人地では、京間1間(約1.97メートル)の庇下(ひさしした)が桟敷(さじき)に変わり、見物人たちが祭りの行列を盛り上げます。武家屋敷の前の通り道にも、祭りの時には仮設の桟敷が設けられ、武家も町人も同じ桟敷に集い、祭りを楽しみました。

常盤橋エリアの文化的価値とは

現在の旧常盤橋(常磐橋)は、明治の初めに壊された江戸時代にあった御門の石組みを再利用して明治10(1877)年に架設されたもので、江戸の歴史を継承している橋と言えます。ちなみにこれは常盤橋御門とは異なるものです。さらに、常盤橋周辺には、江戸時代初期に日本橋川に石積みされた護岸をはじめ、江戸初期から昭和初期にかけての構築物が複数現存しています(表1)。

このことは、文化的な観点から極めて高く評価されます。また、常盤橋は水陸の結節点に位置し、文化的な価値が極めて高い割に、訪れにくい場所になっています。常盤橋プロジェクトには、これらの文化的価値を活かした都市開発をぜひ期待したいところです。

日本で、歴史的・文化的遺産の要素を都市開発に取り入れて成功した例としては、古くは明治36(1903)年に開園した日比谷公園が挙げられます。ドイツ式近代庭園の中に、江戸の堀割の記憶として、和風の心字池をつくり、丸の内と霞ヶ関を隔てていた内濠の石垣と水面を残しました。明治に整備された近代公園でありながら、現在も江戸の風景が上手く融合し、時代の架け橋となり続けています。

近年では、萩、桑名、姫路などで、失われた外濠を歴史的・文化的遺産として再興する都市計画が行われました。東京の場合には、赤坂見附から一石橋辺りまでの外濠が現存しており、江戸の地形の変化や、石垣を使っているところと使っていないところなど、いろいろなことを知ることができます。その重要な拠点として、常盤橋が位置づけられます。

常盤橋の歴史・文化が感じられる場所に

常盤橋エリアにおける問題の一つが道路です。遺構は全て位置を変えていないのに、道路だけ位置が変わっています。そのため、歩いてみるとわかりますが、これだけ遺構が残っているのに、道路や高速道路によって動線上も景観上も分断されていて、文化的な価値がうまくネットワークされておらず、歴史を感じながら自由に歩くことができません。特に常盤橋を通っている区道104号は、単なる通過道路になっていて、今のままでいいのか、吟味した方がいいと思います。とはいえ、自動車を進入禁止にすることは現実的ではありません。訪れた人が、道路を渡るために信号で2つ止まる程度ならよいと思います。その信号を待つ間に、どんな風景を眺められるかが重要でしょう。

都市開発では、「空間の設計」とともに「時間の設計」が重要だと考えています。今、首都高速道路を日本橋の周辺だけ地下化する検討が行われているようですが、部分的な話ではなく、首都高全体を、今後どのように「時間の設計」により消していくかを検討すべきです。首都高も高度成長期から現在までしっかりと働いてきてくれたわけですから、一気に取り壊すのではなく、敬意を払って、消えていくプロセスをイベントとしてしっかり考えるべきではないでしょうか。そうすれば、首都高もちゃんと”成仏”できるのではないかと思います。首都高の撤去は、常盤橋だけでなく、東京という都市空間全体の問題に関わることです。

また、江戸においてステータスなルートだった常磐橋から大手御門に至る道筋を、人が思いを馳せながらゆったりと歩けるようにしてほしい。例えば、60年前に建てられた大手町ビルが維持されると聞いています。ビル内に留まらず、都市再開発エリア内に常磐橋と大手御門を結ぶイメージを鮮明にしてほしいと思います。

東京を再び”水の都”に

常盤橋プロジェクトで計画されている大規模広場には、日本橋川の水際をもっと身近に感じられるよう、親水公園の考えを取り入れてほしいと思います。船の発着場所はもちろん、できれば小規模な船溜まりを設けて、船が係留できるようにしてほしいですね。最近は、日本橋に船が発着できるようになり、船で都心の観光を楽しむ人が増えてきました。水上バスをきめ細かく走らせる上でのネックの一つが、都心に船を係留する場所がないことです。ここに船溜まりができれば、江戸期や明治期のように水上交通で賑わう空間が実現できます。また、昼間は船が活発に往来する姿を、夜は停泊している船影を見られるようにもなります。船溜まりの存在は、日本橋川の景観を活かすという視点でも大いに意味のあることと思われます。さらに、船の上から見た、河岸の景観も重要になります。

常盤橋エリアの南側を流れていた道三堀川の記憶も、何らかの形で都市開発に反映させてほしいですね。道三堀がなければ、江戸城は造れませんでした。それほど重要な存在だったのです。道三堀川と日本橋川が合流していた地点は石垣がなく、今も川幅が少し膨らんでいます。この場所を船溜まりにしても、船の航行に支障はないと思います。その場所に、道三堀の入口をイメージできるようにする、あるいは、素敵な船を停泊させるなどして、ぜひ記憶を残してほしいと思います。

江戸時代は、水面と陸が立体交差をしていました。しかし、その後水面が一方的に失われて、現在は陸と陸との立体交差になってしまっています。それをまた、水面と陸の立体交差に戻したい。高速道路は100年も保ちませんが、石垣は風化に耐えて400年保っています。再び、そういう世界に変えていくべきではないかと思います。常盤橋を皮切りに、船溜まりがあちこちにできれば、ベネチアと同じような交通量になり、かつての”水の都”がきっと復活できると思います。

Editors’ INSIGHT

東京という街の成り立ち、そして常盤橋が担ってきた役割を深く知ることが出来ました。
常盤橋は、日本橋という町人地から江戸城へ向かう重要な結節点であり、 参勤交代や天下祭の神輿の通り道でもある非常に晴れがましい場所。
この場所に刻まれた想いを紐解いて、過去から現在、そして未来への懸け橋となれるよう検討を重ねていきたいと思います。

岡本 哲志 氏 都市形成史家 岡本哲志都市建築研究所主宰 元法政大学デザイン工学部建築学科教授。博士(工学)。国内外の都市と水辺空間の調査・研究に長年携わる。近著に『江戸→TOKYOなりたちの教科書2』『川と堀割〝20の跡〟を辿る江戸東京歴史散歩』などがある。NHK総合テレビ『ブラタモリ』には、案内人として7回出演。

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